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歎異抄(たんにしょう) 珠玉の名言・格言21選

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1.

善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや

善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません

歎異抄(たんにしょう)

2.

父母の孝養のためとめ念仏、一返にても申したることいまだ候わず

親鸞は亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて称えたことがない

歎異抄(たんにしょう)

3.

念仏者は無碍の一道なり

弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りとならぬ、絶対の幸福者である

歎異抄(たんにしょう)

4.

善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり

親鸞は、何が善やら悪やら、二つとも分からない

歎異抄(たんにしょう)

5.

この慈悲始終なし

歎異抄(たんにしょう)

6.

慈悲に聖道・浄土のかわりめあり

歎異抄(たんにしょう)

7.

親鸞は弟子一人も持たず

「自分で自分の心さえどうにもならない親鸞が人を導けると思うのは笑止千万」と自戒したときの宣言

歎異抄(たんにしょう)

8.

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし

縁さえくれば、どんな恐ろしいことでもする親鸞だ

歎異抄(たんにしょう)

9.

煩悩具足の身をもって、すでにさとりを開くということ。この条、もってのほかの事に候。

煩悩具足の身であるこの世でさとりを開けるという邪義について。こんなことを親鸞聖人の教えだというのはもってのほか、どこにもそんなことは教えられていません。

歎異抄(たんにしょう)

10.

仏法の方に施入物の多少にしたがいて、大・小仏に成るべしということ。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。

仏法への財施が多ければ、死んだら大きな仏、少なければ小さな仏になるという邪義について。そんなことは、どこにも教えられていない。おかしな事です。

歎異抄(たんにしょう)

11.

いずれの行も及び難き身なればとても地獄は一定すみかぞかし

歎異抄(たんにしょう)

12.

本願を信ぜんには、他の善も要にあらず

全ての人を救って下さるという阿弥陀さまの本願を信じるのに、何か善いことをする必要はありません

歎異抄(たんにしょう)

13.

本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり

阿弥陀さまの本意は、悪人を救うことであり、また、悪人は自分の悪を自覚して、素直にすがります。これこそ、極楽行きの、最高の出会いです

歎異抄(たんにしょう)

14.

わがはからいにてつくる善にもあらざれば非善という

善いことと言っても、それは 阿弥陀さまのはからいで させて頂いたことだから、 自分が為した善ではないのだ

歎異抄(たんにしょう)

15.

くすりあればとて 毒をこのむべからず

善いことも、悪いことも、すべて阿弥陀さまにつながる…。だからといって、わざわざ悪いことをする必要はない

歎異抄(たんにしょう)

16.

念仏者は無碍の一道なり。

阿弥陀仏に救われた人は妨げが一切ない世界に出ることができる。あるいは、念仏者は妨げがない道を歩むことができる

歎異抄(たんにしょう)

17.

詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり。

つきつめていえば、愚かなわたしの信心はこの通りです。この上は、念仏して往生させていただくと信じようとも、念仏を捨てようとも、それぞれのお考えしだいです

歎異抄(たんにしょう)

18.

悪人正機

悪人こそが阿弥陀仏の本願である救済の主正の根機

歎異抄(たんにしょう)

19.

ひとえに他力にして自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・ 非善なり、と云々。

ひとえに阿弥陀仏のお力で称えさせられる他力の念仏であって、 自力を離れているのだから、阿弥陀仏に救われた人にとっては、 行でも、善でもないのです、とおっしゃいました。

歎異抄(たんにしょう)

20.

信心の行者、自然に腹をも立て、悪し様なる事をもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、必ず廻心すべしということ。 この条、断悪修善のここちか。

阿弥陀仏に救われた人は、しぜんに腹を立てたり、悪いことをしたり、法の友達と口ゲンカしたりしたら、必ず廻心懺悔しなければならないという邪義について。これは、阿弥陀仏の救いと善悪を関係づけている心でしょう。

歎異抄(たんにしょう)

21.

一向専修の人においては、廻心ということただ一度あるべし。

阿弥陀仏の本願に救われた(信心決定した)人は、廻心ということは一生涯にただ一度しかありません。信心決定していない人には一回もないのです。

歎異抄(たんにしょう)